aとthe ぼんやり一般論とはっきりした認識

地元の新聞

ンマーク語だともちろん、aやtheではありませんが、それでも「冠詞」というものは存在します。

英語のときもaとtheの使い分けがよく分からず、適当にやってきましたが、そのツケが回ってきました。そして、デンマーク語として私の前に立ちはだかっています。こうなったら徹底的に「冠詞」の何たるかを学んでみたいと思います。

ず、先生に聞いてみました。「いつaで、いつtheなの?」。先生の答えは、日本でも中学校で習った通り、「最初に出てくるときはaで、それが繰り返し出てくるときはthe」。

ンマーク語の文法の本にあたってみました。まず原則は「最初のときはa」です。そして、さらにもっと的確なルールが載っていました。曰はく、

  • 一般的なことを語るときはa 

この例として、例文①「子供というものは、一人では自分の面倒が見れない」。この時の「子供」はtheではなくaです。誰か分からない子供をぼやかして表現しているからです。さらに例文②「みんな愛を求めている」。この時の「愛」はtheもaも付きません。ぼんやりした概念だからです。例文③「男性というものは、通常、女性より背が高い」。複数形の男性と女性ですが、どちらも不定冠詞で特定を避けています。ぼんやりです。

は、定冠詞theはいつ使うのでしょうか。

  • 原則は「2回目以降に出てくるときはthe」

例文「昨日、メロンと梨を買った。メロンは大丈夫だったが、梨は腐っていた」。買った話を初めてするときは、メロンも梨もaです。でも腐っていたメロンのことを表現するときは、theです。この違いはどこから来るのでしょうか?話し手は、まず最初はぼんやりと「メロンを買った」という事実を伝えます。そうすると聞き手が「ふむふむ。どんなメロンだったのだろう」と関心を持ちます。話し手は、聞き手の関心が「自分の買ったメロン」に向けられたことを見計らって「そのメロンは、実は腐っていたんですよ、ひどいですよね」と話を繋げます。そうなるとメロンは俄然、どこにでもあるぼんやりしたメロンではなく、話し手と聞き手が共有する場に存在する「あのメロン」になっています。ぼんやりした一般論とはっきり共有される特定の事象の違いがaとtheの違いで表現されています。

れを裏付けるように、先生がアドバイスしてくれました。曰はく、「初めてのときでも、その場にいる人が皆で共有している概念であれば、いきなりtheを使う」。例文「あ、そこのコップ取って」。いきなりのお願いであっても、「コップ?コップ?どのコップのこと?何のこと?」という状態ではなく、目の前に明らかに「コップ」がある場合、それはaではなくtheを使って表現されるわけです。

法の本に戻りますと、定冠詞theを使う場合はまだあります。

  • 新しいものに言及したときに、それにまつわるものはthe

例文「彼は古い家に住んでいるが、屋根と窓は新しい」。古い家の話は聞いてないので、aです。「ふーん、でその家どんな家なの?」と聞き手が家について共有の概念を持ってくれたら、「その家」の一部である屋根や窓は、すでに話し手・聞き手ともに共有されているイメージなので、theです。

例文「昨日、私たちは座ってTVを見ました。そしたら突然、画面が真っ暗になってしまいました」。いきなり隣にいた人からTVの話をフラれたらちょっとびっくりします。だから、聞いてない話のときのaを使って、ぼんやり導入します。「うん。TVね。それがどうしたの?」となると、TVは聞き手にとっても共有の概念として存在しています。だから、TVの一部である画面はtheです。

  • 体について言及するときはthe

例文「腕を折った」「お腹が痛い」「転んで膝を打った」。腕、お腹、膝はすべて定冠詞theで表現されます。自分の体にまつわる話をするときは、自明だからでしょう。ぼんやり「え?誰の腕?」と考える聞き手がいたら、そちらのほうがちょっと頭の回転がのろい、ということでしょう。

  • 誰でも知っているもの、ことはthe

警察、法律、社会システム、大学、天気、太陽、地球、女王様。例文「今朝、警察が私達を追っかけてきた」。「今日の天気はどうですか?」「女王様はまた外遊に出る」。すべてtheで表現できます。社会の概念としてみんなに共有されているから、一般論から説明する手間を省いていいのです。

うやって考えながら、新聞を読んでみると、確かに、the・・・・で表現されているものは、読んでいて違和感がないもの、つまり既知のものです。一方で、a・・・・で表現されている名詞は、漠然としていて、詳細の説明がないと「どんな?」「それで?」と突っ込みたくなります。

先生が、「定冠詞theが付いている言葉は、何かの原因になっているから、それを文章の前に持ってきたほうが読みやすい」と言っていました。導入部分は一般論から入り、それから、その概念を話し手・聞き手の間で定義し、共有の概念を作り出す。そして、その概念を中心に論旨を展開する、ということなのかもしれないと考えれば、なんとなく先生の説明も分かります。

語の違いは、頭の中でイメージする、ものの認識にも影響しているのではないか、と考えます。日本人には「冠詞」という概念がありません。日本人には、会話の導入から結論まで、ものの認識があいまいなままでも話し手・聞き手でコミュニケーションが取れる、という特殊能力があります。つまり、双方でものの定義を明確にしないままでも、ぼんやりと同じ事象を指すことができます。だから、aやtheで区別して、「一般的なメロン」なのか「私の買ったメロン」なのか説明する必要がありません。それは、物事をきっちり定義して、双方の合意のもとに、「一般的なメロン」と「私の買ったメロン」を区別する西洋民族の思考回路とは、けっこうかけ離れていると思います。

意識的に西洋人は、物事を一般論と具体論で線引きしているのでしょう。定冠詞をつけることによって、より具体的に「私の買ったメロン」を、「さっき話に出た家の屋根」を、頭の中ではっきり認識していると思われます。となると、彼らはもっと鮮明な認識の中にいることになります。我々、日本人がイメージしている事象よりはるかに鮮明に、彼らは脳の中でそれを認識しているのだと思います。

このように、日本語と西洋語の間には、ものの認識の違いが大きく言語に影響してします。単に文法を習って日本語を直訳するだけでは、なかなか外国語が上達しないのは、そのせいだと思います。彼らが物事をどのように認識するか、というプロセスこそ学んでみる価値がありそうです。

お、パートナーにaとtheの違いについて聞いてみましたが、理論では説明できないけど、変だと分かると言っていました。確かに、日本語も、そうやって覚えました。結局、習うより、慣れろ。「今日、習った言葉は実際の生活で使って、使って、自分のものにしてください!」と言っていた先生が一番正しいのでしょう。