介護ヘルパー学校:教育学の授業

 

育学というと、ものものしく響きます。デンマーク語ではPædagogikといって、幼稚園の先生はPædagog (ペダゴー)と呼ばれます。それをなぜ、老人介護のヘルパー学校で習うのか?なんでも、デンマークでいう教育学は、学校教育に限ったものではないとのこと。家庭の育児も然り、人生の節々における「学び」すべてに通じる考え方のようです。言ってみれば、児童心理ならぬ「老人心理」のようなものでしょうか。介護の脈絡では、Pædagogisk Omsorg(ペダゴー的なケア)に繋がります。この考え方を日本語に訳するのは至難の業です。「教育的ケア」と直訳すると、まるきり意味が通じません。

うなのです。この「教育学」の授業、出てくるデンマーク語のキーワードの一つ一つが非常に難しいのです。観念的な言葉、かつ、北欧的な考え方。英訳でも日本語でも、あまり意味をなさないのです。だから、”Pædagogisk Omsorg(ペダゴー的なケア)”と言われても、初めはさっぱり何を言っているのか分かりませんでした。

日の「教育学」の授業は4日目。テーマは「Anerkendelser」です。これまた、難しい言葉です。普段の生活では、「ふとしたことへの賞賛(appreciation)」や「その人のことをあるがままに受け入れること(recognition)」という意味で使われます。例えば、私が学校帰りに、近所に住むクラスメートを車で送ってあげたら、Anerkendelserとしてチョコレートをくれた、といった風です。

ころが「ペダゴー的なケア」でいうAnderkendelserはもう少し複雑です。多くの場合、倫理的なジレンマが伴います。

例えば、幼稚園で園児が野菜スープを作ります。5歳のトムが「先生!見てみて、僕、人参2本並べたよ。そしたら、2本いっぺんに切れて早いでしょ」と自慢げです。あなたが先生なら、どう対応しますか?

  • 対応1—事務的に処理。人参を1本取り上げて、言う。「2本もいっぺんに切れないよ。はい、これでよし。1本づつ切ってね」
  • 対応2—興味を示す。「人参を2本並べたのね。気を付けてね。何か手伝ってもらう必要があったら、声をかけてね」と見守る。

この二つの対応の違いは歴然です。対応1は正論。生徒が指を切るリスクを未然に防止。でも、先生の正しさを子供に押し付けています。対応2はAnderkendelserを発揮した例です。大事なことは、子供の行い(経験)を「追認」しているとこです。ここでは「いい」とも「悪い」とも言っていません。判断を保留しているのです。そして、子供が経験することを黙認しています。

「ペダゴー的なケア」においては、当事者との間に、力バランスの差があります。園児と先生。老人とヘルパー。どちらか一方が、相手を凌駕する経験や知識を有しています。だからこそ、「Anerkendelserをもってして人と接することが大切ですよ」と授業は続きます。私にも、だんだん分かってきました。自分が目上だからという理由で、「自分の正当性を押し付けない」「自分の価値基準で判断しない」「自分の前提で物事を進めない」ということも、Anerkendelserは意味しているのではないか、と。

次の例。トムが幼稚園で、先生に「昨日、魚釣りに行ったんだ」とみんなの前で話しました。あなたが先生なら、どう対応しますか?

  • 対応1—冷静に「あら、そう。どんなお魚を釣ったの?」。トムは分からない、とうつむきます。「じゃあ、トムは他にどんなお魚を知っているかな?」トムは知らないと言います。先生は、他の園児に向かって「誰か、お魚の名前を言える人がいるかなー?」。会話はトム抜きで、お魚の名前で盛り上がりました。
  • 対応2—トム一人に集中する。「あら、いいわね。何か、その話もっと聞かせてくれる?」すると、トムは「僕たちね、浜辺で焚き火をしたんだ。そしたらね、その炎がものすごく大きくなったの」と楽しそうに話始めました。

先ほどの例とは少し違いますが、対応1では、先生が「魚釣りと言えば、魚」と頭から決めつけてしまっています。上から目線の会話は限定的になり、子供が欲していたこととは違う論点になってしまいました。対応2はAnderkendelserを発揮した例で、まず子供に主導権を渡しています。ここで、先生と子供の視点を合わせています。答えがYesかNoにならないように、うまく質問をして、話を導きだしています。

のように、力関係に上下がある場合、とかく上の人が考え方を押し付けがちですが、一歩引いて、相手と視点や立場をすり合わせることがAnerkendelserの出発点です。これを聞いて、私は納得しました。Anerkendelserをもって介護にあたる(つまり「ペダゴー的なケア」)においては、「よき聞き手」になることが一番。素直に、他人の視点で、偏見を持たずに時間をかけて、話を聞く。それに尽きるような気がしました。そうすることによって、相手は「自分を理解してもらえた、受け入れてもらえた」という自尊心を感じることでしょう。ただし、そのためには、人手もコストもかかります。まさに、それが教育現場や介護現場での大きな課題です。

同時に、時間があっても、「ペダゴー的なケア」ができるわけではないと思いました。相手への関心がなければ、Anderkendelserは生じません。忍耐も好奇心も必要でしょう。私は、そういえば…と昨年の冬、実習生として老人ホームに3週間行った時の事を思い出しました。とても静かで穏やかなヘルパーの女性がいました。その人は、入居しているおじいさんやおばあさんの無茶苦茶な言いがかりに対しても、常に動じずに対応していました。今から思えば、彼女は「ペダゴー的なケア」を実践していたわけです。高圧的に出るわけでもなく、かといって、入居者の言いなりになるわけでも、へりくだるわけでもなく、淡々と、同じ視点に立ち、静かに、彼らの言い分を「追認」していた(つまりAnerkendelser)のです。

そうなってくると、このAnerkendelserは一種の修行、悟りのような行為でもあります。今風にいえば、マインドフルネスにも似ています。感情や判断は保留。そこで起こっていることをそのまま受け入れる(追認)。そして自分の心は常に穏やかに保つ。

ずれにせよ、デンマークの介護ヘルパー養成学校で習うことは、とても高尚です。習ったことを気持ちよく介護現場でも実践できたら、ヘルパーさんも入居者もみな、幸せになれます。

 

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