しつこいけども the

分でもしつこい性格なんだな、と思います。従って、引き続きaとtheの違いを報告いたします。今回は、自分でもかなり「がってん!」な領域まで達しました。名付けて、「映画のシーンの切り替え」です。

画を見ていると、シーンがガラッと変わることがあります。例えば、学校のシーンからいきなり森のシーンに切り替わったりした場合。

森のカットには森があって、湖とコッテージがあったとします。その森のカットを初めて見たときの感覚はaです。だけどカメラがずーっとズームして、コッテージに焦点を当てたとき、そのコッテージはtheです。コッテージに続く道もtheです。すると突然、そのシーンに車と男性が登場したとします。車はa。男性もa。カメラが男性にフォーカスしたとき、その男性がサングラスをしていたとします。そうすれば、サングラスはtheです。ハンドルを握る男性の手にカメラが移ると、ハンドルはthe、手もtheです。

こで、カットが切り替わり、コッテージの庭にいる子供が映ったとします。この子供はaです。そこに先ほどの男性が現れたら、男性はthe。その手に拳銃を握っていたら、手はtheですが、拳銃はaです。拳銃が鳴り響き、カメラが湖面をしんしんと捉えたりした後、次にシーンがガラッと変わることは、映画ではよくあります。例えば、いきなりシャワーシーン。

シャワーを浴びている女性がいたら、最初はa。でもその女性がシャワールームで使っているもの、例えばシャンプーとか石鹸、バスマット、鏡などはthe。シャワーを浴び終えて、タオルで体をふき、着替えます。タオル、着替えはthe。その時ふと、女性がドアの下に挟まれた紙に気が付いたとすると、その紙はa。映画のシーンでは、わざとらしいですが、カットが大げさにズームアップされたりする瞬間です。

まり、カットが変わる瞬間、瞬間の感覚はaですが、同じシーンを見続けている間はtheとでもいうのでしょうか。同じシーンでもカットが急にズームされたり、強調されたときはaです。

あくまでも、個人的な文法解釈ですが。自分ではこれでかなり納得がいきました。

曜日にデンマーク語の先生と一緒に短編小説を読みました。その冒頭を映画風にすると、次の通り。物憂げな午後。まだ空いていない商店の階段に座っている、一人の女性がいます。女性はうとうとしています。彼女は黄色のドレスを着ていますが、少し窮屈そうに見えるほど体にぴったりして胸を締め上げています。

このシーンで、aとtheはどのように用いられるか。一人の女性はa。座っている階段はthe。着ているドレスはthe。胸はthe。結構、theが多いのです。私たちは、よく「最初に出てきたときはa、同じものが繰り返し出てきたらthe」と習います。それに倣うと、階段もドレスも胸も、この小説で初めて出てきたものなので、aでよさそうなところです。ところが先生に言わせると、「aだと気持ち悪い」。女性がいれば、至極自然にドレスが想像できて、そのドレスがきついと言えば、彼女の胸を指していることが自明だからだそうです。

生はそれを「文脈で解釈する」と言いました。直接的に言及していなくても、前後の文脈や行間を読んで自明な場合は、the。だから、一見初めて言及されるようなものであっても、aでなくtheで登場するものが結構多いのです。

でも、もしかしたらこれは、同じ文化圏だから通用するルールなのではないか、とふと思ってしまいました。つまり、論理的な思考や文化が違う場合においては、「何を自明とするか」は自明ではないからです。ざっくり言ってしまえば、お風呂の文化を知らない外人に風呂桶をtheと言っても、しっくりこないだろうということです。

ころで、This is a pen. This is an apple. という例文で日本の英語教育は始まります。歌にもなって、世界中でヒットしました。だけど、よく考えたら、変な例文です。初めてペンとりんごを見る野蛮人とか赤ちゃんに、「これはペンというものです。これはりんごというものです」と言ってるような感じではないのでしょうか。自然な流れとしては、「ペンでしょ。分かってる。で、そのペンがどうしたの?」となるでしょう。だから日本の英語教育でも、This is a pen. The pen is mine. 「これはペン。私のペン」という風に文脈で教えるべきだと思うのです。

文脈やロジックを無視して、結果だけ暗記させる詰め込み式の教育の弊害は至るところにあります。だから、私は円周率を3と覚えさせたりするのにも反対です。英語を幼児期に学ばせることにも疑問を感じます。感覚で英語を身に付けることに意義はあるでしょうが、日本においてそれを徹底するのは難しいからです。結局どこかで、語学を理論的に解釈せざるを得ず、その時必要になるのは、幼児教育ではなく、日本人として正確な国語の文法だと思うのです。

つての文豪、森鴎外や夏目漱石は語学に堪能だったと聞きます。もしかしたら、当時の英語教育が単なる詰め込み式ではなく、どのように外国人がものを見、考えるか、という側面にまで踏み込んだものだったのではないかと思うようになりました。

 

 

 

 

暗黙知は説明しなくてthe

aとtheの続報です。月曜日担当の先生にまた聞いてみました。一緒に授業を受けていたのはデンマーク人の二人。私が分からない「aとtheの違い」は、彼らには全然問題がないことが分かりました。あまりにも問題がなさすぎて、コンピューターで解く問題集にも「aとtheの違い」についての課題がないくらいです。

かし、私には目から鱗のような話ばかり。今日は、先生が驚くような例文を示してくれました。

「昨日、座って話をしているときに、ランプの灯が消えた」「それは水中ケーブルが燃えたからです」

の例文の中には、名詞が二つ。「ランプの灯」「水中ケーブル」です。さて、この時、冠詞はaでしょうか、theでしょうか。私は瞬間的に、「初めて聞く話。aでしょう」と思いました。でも、そうではありませんでした。正解はどちらもtheです。デンマーク人の生徒もtheだと言っています。なぜか。

「ランプの灯」は、人が座って話していたら、頭の上にランプがあるのは普通。だから、いちいち説明しなくても、聞き手は自然にランプを想像するため、初言及でもtheでいいのだそうです。というか、むしろaを使うと不自然で気持ち悪いと言っていました。

「水中ケーブル」は、停電の理由としては普通ではありません。しかし、この島に限って言えば、停電と言えば水中ケーブルと相場が決まっているのだそうで、「あーまたか」と既視感を覚えるようです。つまり、説明の必要がない。ここでも聞き手が自然に地中ケーブルに思いを馳せるため、初言及でもtheでいい、ということになります。

もしろいです。なんでしょう、この言語感覚。もたらされた情報を元にイメージしたものが、どこまで皆と共有できているか、つまり、「集団での認識形成プロセスの一端」なのだ、と私は捉え直しました。自明の理、暗黙知。いずれであっても、集団で認識を共有できている間は、the。aを使って説明する必要がない(むしろ説明は不要)。逆にいうと、会話の中のある事象について、聞き手がまだ話し手の意図するイメージに至っていない時のみ、aを用いて説明ステップを取る必要がある。aはtheに至るまでの導入ステップなのです。だから、やたらとaを使って作文すると「うざったい」感じになってしまいます。

「ランプの灯」は人が会話しているシーンですでにイメージ可能。「水中ケーブル」は停電が暗示しているのでイメージ可能。しかし、停電と「水中ケーブル」がすぐに結びつかない私のような人がいる場合は、aのステップを刻むことが必要になります。

お、一端aで紹介しておいて、その後theで表現し続けた名詞であっても、しばらく間が空いた場合や、少し空気感を変えたい場合は、またaを使います。その時の話し手の意図は、「さっきも言った the XXですが、忘れちゃったでしょ。a XXですよ」という感覚らしいです。

 

 

aとthe ぼんやり一般論とはっきりした認識

地元の新聞

ンマーク語だともちろん、aやtheではありませんが、それでも「冠詞」というものは存在します。

英語のときもaとtheの使い分けがよく分からず、適当にやってきましたが、そのツケが回ってきました。そして、デンマーク語として私の前に立ちはだかっています。こうなったら徹底的に「冠詞」の何たるかを学んでみたいと思います。

ず、先生に聞いてみました。「いつaで、いつtheなの?」。先生の答えは、日本でも中学校で習った通り、「最初に出てくるときはaで、それが繰り返し出てくるときはthe」。

ンマーク語の文法の本にあたってみました。まず原則は「最初のときはa」です。そして、さらにもっと的確なルールが載っていました。曰はく、

  • 一般的なことを語るときはa 

この例として、例文①「子供というものは、一人では自分の面倒が見れない」。この時の「子供」はtheではなくaです。誰か分からない子供をぼやかして表現しているからです。さらに例文②「みんな愛を求めている」。この時の「愛」はtheもaも付きません。ぼんやりした概念だからです。例文③「男性というものは、通常、女性より背が高い」。複数形の男性と女性ですが、どちらも不定冠詞で特定を避けています。ぼんやりです。

は、定冠詞theはいつ使うのでしょうか。

  • 原則は「2回目以降に出てくるときはthe」

例文「昨日、メロンと梨を買った。メロンは大丈夫だったが、梨は腐っていた」。買った話を初めてするときは、メロンも梨もaです。でも腐っていたメロンのことを表現するときは、theです。この違いはどこから来るのでしょうか?話し手は、まず最初はぼんやりと「メロンを買った」という事実を伝えます。そうすると聞き手が「ふむふむ。どんなメロンだったのだろう」と関心を持ちます。話し手は、聞き手の関心が「自分の買ったメロン」に向けられたことを見計らって「そのメロンは、実は腐っていたんですよ、ひどいですよね」と話を繋げます。そうなるとメロンは俄然、どこにでもあるぼんやりしたメロンではなく、話し手と聞き手が共有する場に存在する「あのメロン」になっています。ぼんやりした一般論とはっきり共有される特定の事象の違いがaとtheの違いで表現されています。

れを裏付けるように、先生がアドバイスしてくれました。曰はく、「初めてのときでも、その場にいる人が皆で共有している概念であれば、いきなりtheを使う」。例文「あ、そこのコップ取って」。いきなりのお願いであっても、「コップ?コップ?どのコップのこと?何のこと?」という状態ではなく、目の前に明らかに「コップ」がある場合、それはaではなくtheを使って表現されるわけです。

法の本に戻りますと、定冠詞theを使う場合はまだあります。

  • 新しいものに言及したときに、それにまつわるものはthe

例文「彼は古い家に住んでいるが、屋根と窓は新しい」。古い家の話は聞いてないので、aです。「ふーん、でその家どんな家なの?」と聞き手が家について共有の概念を持ってくれたら、「その家」の一部である屋根や窓は、すでに話し手・聞き手ともに共有されているイメージなので、theです。

例文「昨日、私たちは座ってTVを見ました。そしたら突然、画面が真っ暗になってしまいました」。いきなり隣にいた人からTVの話をフラれたらちょっとびっくりします。だから、聞いてない話のときのaを使って、ぼんやり導入します。「うん。TVね。それがどうしたの?」となると、TVは聞き手にとっても共有の概念として存在しています。だから、TVの一部である画面はtheです。

  • 体について言及するときはthe

例文「腕を折った」「お腹が痛い」「転んで膝を打った」。腕、お腹、膝はすべて定冠詞theで表現されます。自分の体にまつわる話をするときは、自明だからでしょう。ぼんやり「え?誰の腕?」と考える聞き手がいたら、そちらのほうがちょっと頭の回転がのろい、ということでしょう。

  • 誰でも知っているもの、ことはthe

警察、法律、社会システム、大学、天気、太陽、地球、女王様。例文「今朝、警察が私達を追っかけてきた」。「今日の天気はどうですか?」「女王様はまた外遊に出る」。すべてtheで表現できます。社会の概念としてみんなに共有されているから、一般論から説明する手間を省いていいのです。

うやって考えながら、新聞を読んでみると、確かに、the・・・・で表現されているものは、読んでいて違和感がないもの、つまり既知のものです。一方で、a・・・・で表現されている名詞は、漠然としていて、詳細の説明がないと「どんな?」「それで?」と突っ込みたくなります。

先生が、「定冠詞theが付いている言葉は、何かの原因になっているから、それを文章の前に持ってきたほうが読みやすい」と言っていました。導入部分は一般論から入り、それから、その概念を話し手・聞き手の間で定義し、共有の概念を作り出す。そして、その概念を中心に論旨を展開する、ということなのかもしれないと考えれば、なんとなく先生の説明も分かります。

語の違いは、頭の中でイメージする、ものの認識にも影響しているのではないか、と考えます。日本人には「冠詞」という概念がありません。日本人には、会話の導入から結論まで、ものの認識があいまいなままでも話し手・聞き手でコミュニケーションが取れる、という特殊能力があります。つまり、双方でものの定義を明確にしないままでも、ぼんやりと同じ事象を指すことができます。だから、aやtheで区別して、「一般的なメロン」なのか「私の買ったメロン」なのか説明する必要がありません。それは、物事をきっちり定義して、双方の合意のもとに、「一般的なメロン」と「私の買ったメロン」を区別する西洋民族の思考回路とは、けっこうかけ離れていると思います。

意識的に西洋人は、物事を一般論と具体論で線引きしているのでしょう。定冠詞をつけることによって、より具体的に「私の買ったメロン」を、「さっき話に出た家の屋根」を、頭の中ではっきり認識していると思われます。となると、彼らはもっと鮮明な認識の中にいることになります。我々、日本人がイメージしている事象よりはるかに鮮明に、彼らは脳の中でそれを認識しているのだと思います。

このように、日本語と西洋語の間には、ものの認識の違いが大きく言語に影響してします。単に文法を習って日本語を直訳するだけでは、なかなか外国語が上達しないのは、そのせいだと思います。彼らが物事をどのように認識するか、というプロセスこそ学んでみる価値がありそうです。

お、パートナーにaとtheの違いについて聞いてみましたが、理論では説明できないけど、変だと分かると言っていました。確かに、日本語も、そうやって覚えました。結局、習うより、慣れろ。「今日、習った言葉は実際の生活で使って、使って、自分のものにしてください!」と言っていた先生が一番正しいのでしょう。